鎮川郡柏谷面両白里老姑山の下に位置する梨峙聖地は、多くの殉教者の宗教精神を称えて祈る場所として、また靜修の家として活用されたが、十字架とロザリオだけが残されており、カトリック迫害の激しさを今に伝えている。
村の入口に梨の木が多い梨の木峠であることからイチという言葉が生まれ、これが純韓国固有語でベティと呼ばれるようになったという説と、朝鮮英祖の時代に李隣佐が乱を起こした時、栢谷を通り過ぎる途中この村の老人李順坤率いる住民に敗れた後、再び安城の方へ向かったが、オ ·ミョンファン率いる官軍に鎭圧されたということからペチと呼ばれ、それが変化したという説がある。
1870年から再び信仰が芽ばえ、1884年には宣教師らが鎮川にベティ、サムバゴル、ヨンジンゴル、セウル、グルティなど5ヶ所に公所を設定するようになった。1890年にはベティ公所に「教理学校」が建てられたこともある。しかし、日帝時代に信者たちが一人、二人と去っていき、現在ここベティには信者らが生業を営んだ陶器店と無名殉教者の墓のみが残されている。一方、梨峙(ベティ)聖地では梨峙(ベティ)聖地開発後援会を組職し、教会史研究所と靜修の家を計画していると伝えられている。