鄭松江祠は、松江鄭澈先生の位牌を奉安した祠堂であり、地方記念物9号に指定されている。
朝鮮時代の政治家である鄭澈先生は左議政を務め、金麟厚などの文人で、明宗16年に進士と別試文化に壮元、持平を経て咸鏡道の暗行御史となり、栗谷と共に賜暇讀書の恩典に与った。
文禄の乱の時、王を義州まで扈從し、體察使となり、国難克服のために力を尽くした。松江が江原道の観察使、咸鏡道の観察使を経て、全羅、咸鏡道の観察使として過ごす間、天才的な文才を発揮し、關東別曲、訓民歌を書いた。その後、故郷に帰り、思美人曲、續美人曲など多くの歌辭と短歌を残した。
先生の墓所は、元々は京畿道高揚郡原糖面新院里にあったが、顯宗6年(1665)に、尤菴宋時烈が今の墓所に位置を定め、彼の子孫の鄭瀁が移葬し祠堂を創建したが、規模が小さかったため、1979年に全面新築浄化した。
祠堂は木造19坪の切妻屋根で、遺物展示館はセメント造りの32坪八作屋根となっている。境内には松江墓所と神道碑があり、松江先生の銀杯、玉杯、そして燕行日記65日分と直筆の手紙などが保管·展示されている。
松江祠(地方記念物9号に指定)の左には、乾いたススキが生い茂る一本道があり、それに沿って300m程度登っていくと、松江の墓所に出る。
資料: 鎮川郡誌