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  • 金庾信
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  • 金庾信
  • 本館は金海、伽揶国金首路王の12代孫で、曽祖父は532年(法興王19)、新羅に降伏した金冠伽揶の仇亥王で、父親は大梁州都督を勤めた舒玄だ。母親は智証王の曽孫女と同時に葛文王立宗の孫娘である肅訖宗の娘の万明だ。金春秋と結婚した文明王后が彼の妹だ。
  • 父親である金舒玄が萬弩郡(現在鎭川郡)太守として赴任した時の595年(真平王17)に生まれて、その後父親について慶州に行きそこで成長した。
  • 609年(真平王31)の15歳になった年、花郎になって龍華香徒を導いて修練した。629年新羅軍が高句麗娘臂城を攻撃する時、中幢幢主として参加した金庾信は、敵陣に突入し蹂躙することで新羅軍の士気を引き立て、高句麗軍を撃破するのに大きい功を立てた。この時から彼の活動が目立ち始めた。
  • 642年(宣徳王11)、百済が新羅の西方の40城を陥落して大梁州(今の慶南陜川)を占領し、金春秋の娘と壻である金品釈を殺すなど新羅に大きい被害を与えると、新羅は当時の敵対国だった高句麗に金春秋を送り援兵を要請する事にした。この時、押梁州(今の慶北慶山)郡主でいながら、高句麗に抑留された金春秋の帰還に積極的な役割を果たした。644年、蘇判になって上将軍に上がり、百済国のガヘ城など7城を占領し買利浦城を防御するなど、数回にわたる戦闘で勝利した。
  • 647年(眞德王1)に明活城を拠点に反乱を起こした上大等毘曇と廉宗を鎮圧した。その年の10月には押梁州郡守として撫山城・甘勿城・桐岑城を攻撃した百済軍を撃退した。
  • 648年百済が占領していた大梁州を攻撃して12城を陷落させた功で伊飡になり、上州行軍大総管に上がった。翌年、百済将軍の殷相が大軍を導いて石吐など7城を攻撃すると、中央軍編隊を指揮して竹旨・陳春・天存などとともに百済軍を道薩城で撃破した。その後、新羅の統一戦争で著しい功績を立て、当時新羅に帰化した伽揶王族としては不可能だった新羅政権の中枢的人物として成長した。
  • 654年、真徳女王が子を持てずに死ぬと、貴族会議で推戴された上大等の閼川と相談し、金春秋を王として立てた。彼が太宗武烈王だ。660年上大等になって、その年5万の軍隊を導いて唐の蘇定方と連合し百済を攻撃した。黄山伐で階伯の決死隊を苦戦のあげく退けた後、蘇定方軍と合流、泗沘城を陷落させて百済を滅亡させた。引き続き661年(文武王1)6月、高句麗平壌城を攻撃中に食糧不足で危機に処していた蘇定方軍隊を支援し、軍糧を伝達して帰って来た。
  • 668年、唐軍とともに高句麗を滅亡させる時、連合軍の司令官である大総管になったが、病気で出戦ができず、遠征に行った文武王の代わりに新羅国内の統治を引き受けた。高句麗を滅亡させた後、太大角干に昇進した。その後、直接政治や軍事活動を行わなかったが、新羅支配層の元老として内部団結と戦略樹立に対し諮問の役割を行った。
  • 673年の秋、79歳で亡くなった。遺骸は金山伐に葬り、文武王は有司に碑を立て功と名誉を記録し、そこに居住する民家を決めて墓所を守るようにした。835年(興徳王10)、興武大王に追尊され、忠清北道記念物第1号の吉祥寺で毎年春と秋に祭享を行っている。金庾信の出生地及び胎室は史蹟第414号に指定されている。